灰汁

4月10日(土) 晴れ 16/7℃
東京駅までバスでゆく。日がさすと車内がひだまりになり、時
の流れがゆっくりになった。いい日になりそう。
サワークリームを溶かすと薔薇色のボルシチはロマンチックな
ペールカラーに変わってゆく。
変わらず旨い。さらりとしているのにぽってりとしたコクがあ
り、奥行きがある。どうしたらこんなふうに作れるのかなあ。
ここは地下にあって、食堂車のような細長い店。
すれ違うにもどちらかが身を引くか半身にするほどで、奥に腰
掛ける人には店主が必ずテーブルを引いてくれる。
この店主がたいそう支配的で、ツンケンして感じが悪いのだけ
れど、ヒゲの人は「ケド、旨いからみんな来るんだよな」と言
った。わたしもそう思う。
「お足元一段下がってございます。お気をつけください」から
はじまって、都度都度うるさい。心なしか厨房の職人たちはぐ
ったりとしているように見える。そう言うと「そりゃそうだよ
な、この店主だもん」と口だけ動かす小さな声で言ってにやっ
と笑う。
「あのう、ボルシチとこれだけですかぁ」と甘ったるい声の高
い女子の質問に刺々しくこたえ「まだ食べてるんですぅ」と聞
こえた後に、顔を赤くした店主が何か大きな白い紙を両肘を張
りグシャグシャグシャーとつぶす音は、確かに怒っていた。
次に、隣のテーブルの前で「つっ」と足をとめ、柱の向こうの
壁側の席で見えはしなかったが「お客さま、お皿は置いてお飲
みください。その方がエレガントでございます」とにこやかに
指導した。向かいの席に腰掛けているのは青年だからデート中
なのかもしれない。
「あっ」さっきの紙はテーブルクロスだったんだなあ。ふっふ
っふっふ。
クレープ状のピロシキでランチはおしまい。
会計はテーブル。
お金を払うときにヒゲの人が「これは何ですか?」と壁にかか
っている額を指した。わたしも振り返って見上げる。
「あーこれは、フランスに行った時、ボルドーというワインを
飲んだんですよ」「ああ、いっぱい飲んだんですね?濃い味の
を」「ふふふふ、沢山飲んだで賞でねっ」店主の賞状を見上げ
る瞳の目の向こうに今ボルドーが見えている。妙にヒゲの人と
打ち解けて、いくらでも話しそう。
先に行った人気の揚げ物屋は並んで入れなかったけれど、この
店でよかった。あー面白かった。
腹をくちくして、大坊さんの珈琲を飲みにゆく。
一日だけの珈琲店。
いつもはない「4番」を注文した。
大坊さんの布巾を羽根のようにしてふわっとカップの水気を取
っている姿を久しぶりに見た。足をTの字に固定して、右手も
脇にぴったりとつけ、コーヒー豆に細い湯を落とし、コーヒー
を作っている。
コの字型に細いテーブルを並べて、客は六人腰掛けられる。
その六人ともが、大坊さんの手元をしんと見つめている。
懐かしい正木春蔵さんの小さな器で4番は出された。
たぶん酒器なのだと思う。金継ぎされた線がうつくしい。
ヒゲの人の器は、幾何学的な線に緑色の点がポツポツと配され
ている。わたしには森に飛ぶ青い鳥の器。
表参道の時代からこの小さな器と珈琲は、たくさんの人の手に
取られ、それぞれの時を過ごしたのだと思うと、ぐっ、とこみ
げる。
帰り際ヒゲの人は、お土産を大坊さんにわたしていた。
音楽の話をしているみたい。
わたしは少し離れたところから二人の淡くてあたたかい関係を
見ているのが好きだ。
神保町の古本街を通って帰る。
去年閉業したスヰートポーズのガラスに額をくっつけて覗くと
、いつも賑わっていた店はただの薄茶色のコンポジションにな
っていた。扉に
あ り が と う ご ざ い ま し た
お つ か れ さ ま で し た
ご ち そ う さ ま で し た
4 0 年 通 い ま し た
と大きな付箋紙が貼られてあった。
九段下の駅近くでヒゲの人は振り返って、あそこにあったタイ
ル貼りの建物がなくなったな、とつぶやくように言った。
それが何のビルだったかよく覚えてないけれど、アイボリー色
のタイル造りの5階か6階建てのビルで、白地に黒のゴシック
体でビルの名が一文字ずつ掲げられた、雑居ビルだったような
記憶がある。
うっすらと影に覆われた感じが好きで、道の向こうをただ見る
だったけれど、想像することをうながされた。
暗さが失われた街はつまらなくなる。


―――――――――10日のごはん
九段下から、北の丸公園に入って、すみれ畑にゆく。
すみれの花を口にする。ほんのり甘い。
そのまま皇居側に出て、お濠沿いをゆき、丸の内でソフトクリ
ームにする予定だったが、カレー。インデアンのカレーにする。
ヒゲの人 ルー大盛り 卵
わたし 卵 ピクルス大盛り
帰って長門の柏餅
東京の旨い和菓子屋はなぜかそっくり返って威張る店が多い
が、長門もかつてそうだった。
けれど領収書は素晴らしく、金額は筆書の大字で書かれており、
たいそうな買い物をした気になったものだった。数年前に読め
ないと苦情があったらしく、今はレジから「ピロー」と出てく
るのになった。
そっくり返っていたおばちゃんたちはいなくなり、代替わり
して、感じがよい。嫌な気になることはなくなったけれど、
ややつまらぬ。
菓子は変わらず旨い。形もよい。

きっとドキドキしながら行ったんだろうなあ、と勝手に思ってしまいます。
あ、ヒゲのお人のこと!
美味しい珈琲、ゆるりとした時間、大事だなあ。
どんどん街中が綺麗になって、つるんとしていって、ちょっとでも不愛想だと知らないところで良くないこと言われて、そういうことが本質じゃないのにって思う。
ただのいばりんぼはちょっと嫌だけどね(笑)。
ドキドキした?と聞くと「んー」と遠くを見て、否定せず。不思議な関係かもしれないなあ、というようなことを言いました。大坊さんだけかな、ヒゲの人が、やや、落ち着きがなくなる人は。
むかし、初めてディズニーランドに行った時「うわー、こわい!」と思ったの、みんなニコニコして、ゴミのひとつも落ちてなくて、どこに行ってもハッピーで、不自然だった。
暗くなり、エレクトリカルパレードが始まるまで、トーテムポールのそばのベンチで待っていたのだけれど、昼間の間に押し込められいた何やら黒いものが、土の中から噴出してきそうで、もう怖くて怖くて。
今、世の中はちょっとそれに似ていると思う。バランスを欠いている感じ。
ちなみに、浅草の花屋敷は好きですよ😀ゴミも落ちてるし。

