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日々の皿

具体






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6月13日(日)  晴れ  28/17℃



足が遅いから先に歩いています。

母はつばの広い黒い帽子をかぶって出かけて行った。


きょうは日曜日。

きのうのギターの学生さんはいなかったけれど、ゆったりとした

背もたれの折りたたみ椅子を、広々とした芝地に置いてくつろい

でいる人たちを見ているだけでいい気持ちになった。

おかーさんもあんな風にすると、いいのになあ。

あ。どこだろうおかあさんは。

電話をする。


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「見えているわよ」

「見えないよ?」

「橋のところ」


石橋の向こうに黒い帽子のつばが見えている。

蛇のようにくねるサクシュコトニ川のほとりの、巨きな木の根元に

は、小さな白や黄色の花が咲き広がって星のように光っている。

母はほど近いベンチに腰掛けて、どこかおもしろくなさそうな顔を

していた。そして、飴を一つベンチの節目に入れて「カラスにやる

」と言った。わたしはこっそり回収する。

母はレンガ造りの古い建物の横の小径を抜けてゆく。朝の光がきれ

いだ。緑色が濃いなあ。

今日も花を摘んだ。スグリの実がついた枝を母は私に見せて笑って

いる。

つる科の紫色の花や、歩道まで越境してきているマーガレットも摘

む。今日は羊はいなかった。

袋がいっぱいになったところで、コンビニで朝食代わりのサンドイ

ッチと飲み物を買って、池のほとりのベンチに座る。


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話に耳を傾ける。

母は話して、話ているうちに怒って、わたしはまたこまった人に

なった。

母は怒りにまかせて土手を上がり、蕗の葉が顔を並べている中に

入ってゆき、取りはじめた。

母がぐらりと回転した。目はうつろにくうを見て、俯きに倒れて

アスファルトに額を打つ鈍い音がした。

母は動かない。わたしも動かない。母を動かさない方がいい。動

いちゃだめ。救急車。

アイフォンを手にすると母がゆっくりと仰向けになり、黒い帽子

の下から、ふたつに分かれてみるみる盛り上がる赤と青ににじん

だこぶが見えた。

母は「ははは」と笑った。

わたしは119に電話をして説明する。

「大丈夫」「大丈夫」と母はわたしを止める。

母は手を伸ばしている。両手を深く持って立ち上がらせる。なん

て重い体。

歩きながら、救急センターに相談をした。

問診が始まる。

真っ直ぐに歩いている。一本の指が二本に見えたりもしていない。

視界も霞んでいない。血は出ていない。看護師の声は暗く、機械

的だ。母は病院には行かないと言う。隣のビルの病院ならいいと

言う。おかあさん今日は日曜日。

一度家に帰って、花をたらいにつけ、救急に向かう。母は自分の

思う道を行きたい。タクシーの運転手にあれこれ指図をする。

病院に入ると、さらにしゃんとした。

看護師が廊下の突き当たりに立っている。

すらりと背の高いきれいな人だ。

やわらかな声で問診をはじめる。

「北大の池の土手を上りまして、蕗の二本目を取ろうとしました

時に、あれは足場がやわらかな場所でしてね、ぐらりとしました

の。ああ。そう。その瞬間ハサミを手から離しまして「あっ」と

思った時には、すごい音がしました。火花が出るかというか。

はい。この額だけです。ほっほっほ。ええ。ほかは何ともありま

せん」


CTを撮って、廊下の椅子で待っていると、子供の鳴き声がひびく

。出てきた子供は絶望した顔でもがいている。

母より後に来た人が診察室に通されているから、大したことはな

いのかもしれない。

母はきれいな顔で笑っている。こんな顔、ひさしぶりに見たなあ。

医師はサンダルに裸足、関西弁。何も説明していないのに振り返

って、一人娘、と言った。一時的に東京から帰ってきているのか

、もうずっと帰ってくるのかも聞いてくる。母を年寄り扱いしな

い。ごく自然に話す。母に暮らしのことを聞いている。転んだ状

況も。医師は笑う。わたしも笑う。母も笑っている。


「間が空いていますね」

「骨密度が低いとこう見えるんですよ」

いいよどみながらこたえている。

一ヶ月後に検診。


歩道の花を撮りながら歩いた。

お昼を食べに洋食屋に行く。

席に着くと、驚いた顔で声にかけに来た青年は昔、母の隣の部屋

に住んでいた。

彼の母親が薬学部の授業を終えてご飯の支度をしている間、三兄

弟は母に預けられ、並んでテレビに食い入っていた。隣はテレビ

を置かない主義だったのだ。三人は自分のうちのように育って、

だから時々帰省すると、地球外生物がいるような顔でわたしを眺

めた。

三兄弟の長男は、防衛大学を卒業して、進路を改め、調理師専門

学校に入学。最近この店に就職した。

彼は「隣に住んでいた◯○です」と目を見開いている。

わたしは母には内緒で連れてきたことを伝える。

母はよく食べた。

大きなハンバーグ、大きなカニクリームコロッケ、ナポリタン、

小さなじゃがいもは残したけれど、ご飯も一粒残さずさらい、

アイスクリームはかつてのお隣さんにご馳走になった。


母は家に帰ってから

「こうなるのも当然なんだ。バチが当たったんだ」

と言った。

わたしは花を飾って母に見せる。









by hibinosara | 2021-07-25 07:28 | Comments(0)