麺の日

2月27日(木) 晴れ 17-4
朝の散歩の途中、あの声が遠くから聞こえてきた。
高いところに背中が見える。
静かに階段をのぼる。
この人なのか。
わたしはいつか見た、ブルーのジャージのあの思春期最中
の少年かとばかり思っていた。
音階のない一音だけを発するのが不思議といえば不思議で
肺を強くする鍛錬をしているのかとも思っていたけれど、
朝早く、「アーーーー」と何度も公園の木々の方から発せ
られる声は神秘的だった。
「あなたの声が好きです」
声をかけた。
すこしだけ話した。
ご近所迷惑ではないかと思っていたこと、気功だというこ
とを聞いた。楽しみにしているんですと伝えた。しばらく
聞いこえないとどうしたんだろうと二人で話していること
も。その人は大きなミトンをつけた両手を口のあたりにあ
てて、満面の笑みで、今日は記念日ですとおっしゃった。
きのうの深夜、防犯カメラのプッシュ通知がスマートフォ
ンに送られてきた。
母が動いている。
暗い玄関で、大きな段ボールを持ってゴソゴソ、ゴソゴソ。
母は防犯カメラが暗闇では赤外線仕様になるのを知らない
のか、忘れているのか。
そのまま眠ってしまったけれど、朝方目が覚めて、アレク
サから札幌の居間を見ると台所の電気がついている。
防犯カメラは、軽くなった段ボールをまた元の位置に取り
繕うように戻している母を記録していた。
おかあさん。
わたしはずいぶん怒っているようで、いつもなら「おかー
さん、腐っちゃうよ」「冷蔵庫に入れたらどうかなあ」と、
折れて声をかけるものだけれど、今回は何も言わなかった。
返してくるのも腐るのもそれでよし、それだけの根性を見
せてくれとも思った。
やさしい声をかけてくれるのを待っているだろう母との我
慢比べだ。だから「勝ったね」と胸がすこし明るくなった。
取り繕うっていうのは、母の人生そのものだなと思う。
看護師さんがいらっしゃる。
テレビの音が大きぎるのではないかなと声をかける。
母は「ふん」という顔で「うるさいわね」と怒っている。
悪口が聞こえてくる。
帰り際、看護師さんに母の近況を伝えた。
怒ってはいけません、人を悪く思ってはいけません、憎ん
ではいけません、と、たいていの教育や宗教はそう教える。
けれど「鉄輪」という物語では、心変わりした夫がもう通
ってこない、その女が憎い、呪い殺してやりたいと、貴船
神社に丑の刻参りをする。鳥居をくぐると、神さまはどう
ぞおやりなさいと女に告げる。「へえ」、とおどろいたも
のだけれど、そのことはいま思うと、どうぞいきなさい、
という意味が含まれていたのではないかなあ、その気持ち
をいかせてやりなさいと。
母に対しては積年の怒りがある。取り繕うところも大嫌い
だ。なんて卑怯なんだと何度も地団駄を踏んだ。けれど、
わたしの記憶には観音様のように神々しく微笑んでいる母
もいて、人にはいろんな季節があるんだなと思う。
今回ばかりは、家が揺れるくらい、ガラスが全部割れるく
らいに怒ったから、どん詰まりの感情の、いきさきを変え
ることができたように思う。そう感じる。
確定申告のため、食卓はすべて麺。
麺の日だ。
――――――ごはん
朝のごはんは
麺と柑橘

昼のごはんは
インスタント鍋ラーメン
ちくわと昆布とたまご入り

おやつ
ソース焼きそば

夜のごはんは
ビーフン
大根餅
スナップえんどう
お豆が出てくる季節になったのだなあ。


