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日々の皿

車椅子 1 



夏の、つばの広いお帽子をかぶったおかあさんは、ゆっくり

壁をつたい、車椅子の肘掛けにつかまって体を乗せた。

外に出るとわたしの目は歩道の端の一番段差がすくない場所

を探しはじめる。さいしょの頃より余裕ができてその分注意

深くなった。段差を下がって道に出る時も、段差を上がって

歩道に入る時も、ゆっくり進み、けれど決して止まってはい

けない。平地を探し穴を避け迂回をして、同時に車椅子の前

方を浮かせる腕力も必要で、この組み合わせがおかあさんの

腰や背骨を伝わって頭を痛くする衝撃や、今にも破れてしま

いそうな大動脈瘤に与える振動をやわらげる。


車椅子を操縦することはまるで人生を乗り切ってゆくようだ

と思いながら、道庁を抜ける途中、北の母子像といういかに

も母が好きそうな彫像が目にとまり、車椅子を停め、母を前

に写真を撮った。

後ろの池ではハスの花がつやつやと咲いて、まるい葉が煌め

いていた。もっと近くで見せようと車椅子を進めると「落ち

る」と小さな悲鳴をあげて体をこわばらせる。

おかあさんはとても怖がりだ。


まだ六月だというのに大通公園の赤いデジタル温度計の数字

は34°を示していた。

公園を通ると「とうもろこし食べたい」と、久しぶりに病院

から出たおかあさんは自由を味わいたがった。


銀行は遠くなった。テレビ塔のさらに何丁も向こうの東側。

着くまでに母は何度も不安がった。こんな寂れた方にあるわ

けがない。そして「おかあさん、こんなところに一人では来

られないわ」と言った。


都市銀行に着くと受付の行員が用件を聞いてくる。

用紙に書き込むのを手伝って、おかあさんを見上げると、も

う何年も見ることのなかった穏やかな顔で微笑んでいてはっ

とした。。

この頃なるべく持ち歩くようにしている大きなカメラを急い

で構えて写真を撮る。

3月、倒れた打撃で折れた肩甲骨や肋骨が継ぐには二ヶ月か

かると熊のような大きな医師に告げられて、けれど、一週間

内死亡率100%と言い渡された母の肉体はその頃には消え

てなくなっているわけだから、それは耳を塞ぎたくなるよう

な無意味な宣告で、医師の口から発せられた二ヶ月は宙にぽ

っかり浮いていた。けれど、その下で母はまだ生きている。


もう一行、近くの信用金庫にもゆく。

「おかあさん、冬の雪の日に迷ってねえ。迷って、迷って、

泣きそうだった。建物の色が変わっていたし、着くともう

3時近くで、書類を忘れてねえ。ここも一人ではなかなか来

られないわねえ」と言った。

母は古い証券を出すと、今の時代は不要ですと行員に手で止

められた。母は自分までが不要だと告げられたかのように傷

ついて急に不機嫌になり、一連の手続きが終わるまでそこで

顎をあげて怒っていた。


用事が終わってからは、母が行きたいと指差す方に車椅子を

進めた。

狸小路を端から端までゆき、古い昔ながらのお茶屋が残って

いることに歓声をあげて、ほうじ茶をひと袋買った。その変

わっていない風景を母は喜んで「あなたのおかあさまとお友

だちだったの」と店主に繰り返した。

露店で求めた一房の葡萄を大事そうに母は袋に入れて膝に置

いた。札幌駅ビルの台湾料理屋にゆき、無料で出された熱い

ジャスミンティーを二人でがぶがぶ飲んだ。汗をかいていた

から熱いお茶が実に沁みた。おかあさんは先に出てきた小籠

包薬味の千切り生姜をつまみと間違えてパクリと一口で食べ

て涙を流した。辛かったのだ。そして恥ずかしがった。汁

に小籠包、板餃子にワンタン、ふるふるの杏仁豆腐。

おかあさんと二人でこんなふうに買い物をしたり食事をしたり

することはもう二度とないと思っていた。

母は天井を見上げてこの店まできて良かったと喜んでいる。


母はさらに買い物をしたがった。

魚、梅干し、牛乳、大きな椎茸。

母は喜びに溢れている。


以前と違うのは、母は車椅子を離せなくなったし、私のバッグ

には常におしめが入っている。








by hibinosara | 2025-07-03 16:41 | Comments(0)