人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日々の皿

ICU 1



こうして話しているうちにも人工大動脈に替える手術の

成功率は刻々下がっています。開胸をして一度心臓を止

めるわけですから、もし、手術が成功したとしても年齢

を考慮すると昏睡が続くか、寝たきりになるか、認知症

にもなる確率は高い。それが生きることなのか、それで

も生きていた方がいいのかと、外科医に決断を迫られた。

今までの母の発言をからすると手術を断るだろう。けれ

ど命がないとわかったら、すこしでも長く生きたいと切

望するかもしれない。

わたしにはわからない。母の命を決められない。

夕べ救急に運ばれた母は帰りたいとばかり半狂乱になっ

て手術を拒否していたと聞いたし、今はせん妄が出て、

折れた肩の方の手で書いた歪んだ文字で連ねられた意味

不明の手紙を小さく折って、秘密裡に伝えたいことがあ

るかのようにわたしの手のひらに押し込んできた。


母の友や親戚はみな手術は可哀想だと言った。

それに、意識が戻った時、自分の胸に人工血管が入って

いると知ったら母はどうなるだろう。一人の友は幸子さ

んなら蘇ってくるよと言ったけれど、それを聞いた途端

、それはありえないことだと勘が受け取った。

この居間に母はもう帰ってくることはないのだ。パンや

ケーキを焼いたり、お惣菜を真空パックに詰めて送るこ

とももうないのだ。そう思うと、急に部屋が暗くなった

ように思った。


占った。


母がこの部屋に帰ってくることはあるのか。

いやこの問いは、言葉が足りない。

母が「生きて」この部屋に帰ってくることはあるのか。


占のこたえが目の前に転がって、まさか?と目を疑う。

準備が整うって、そんなことってあるんだろうか。この

象は母の周りに人が集まってみんなが整えてくれると読

むといいのか。それとも、私がやるのか。


看護師から「おかあさんがあなたに伝えたいことがると

言っています」と電話がかかってきた。

母はICUで大騒ぎをして困らせていた。私たちの姿を認

めると母はすぐに泣いた。ともちゃんとゆきさんの手を

取って泣いて「ここから出してちょうだい」と顔を歪め

た。しばらくゆきさんの手を握って落ち着いていたけれ

ど、「この天井を見てごらんなさい。この下では死にた

くないの」とまた泣いた。

担当医を呼んだ。

「あなたにもお母さんがいらっしゃるでしょう。その方

がこうなったら言うことを聞いてあげてください」と切

々と説教をして「医者より患者の意思が尊重されるべき

です」と強く訴えている。医師が、そんなにすぐには動

かせないし、ここを出るにも手続きには時間がかかると

言っても母は譲らない。医師が看護師に耳打ちをして師

長が呼ばれた。

どちらにしても、退院するにしても入院したままにして

も、手術をするにしてもしないにしても私は後悔すると

思うので、母の好きにさせたいと申し出ると、重く垂れ

こめていた空気が動き始めた。



夕方、ダスキンに電話をして介護ベッドの手配をすると、

物事はもうすでに動いていた。二日後には母は家に戻っ

てくることになる。

なんということか。ぼうぜんとしたまま街に出た。

地下街に入り、ただ歩いた。どうなるんだろう。どうな

るのかわからないけれど、お母さんらしいや。そう思う

と、笑いがこみ上げてきてどうしようもなかった。







by hibinosara | 2025-07-04 14:15 | Comments(0)