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日々の皿

ICU 2







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早朝、北大に散歩に出かけた。

東京には桜が咲き始めたのに中央ローンには冬の雪がう

ず高く残っていた。でも春のコートしかない。頭がぼん

やりして、落ち着かない。Oさんに電話をした。受話器

にピッタリ押し付けられて一言も漏らさず聞いている冷

静な耳の輪郭が浮かんできて、それはずい分と助けられ

ることだった。けれど、その時何を話したのか。たぶん

、母が医師を説き伏せて明日戻ってくる、というような

ことだろう。実際、手術をするかしないか母に代わって

決めなければならないことで頭が一杯で、家に戻ってく

る選択肢はきのうの朝までなかったのだから。

「息が浅いからしっかりと呼吸をすること」たしかOさ

んはそう言ってくれた。


昼過ぎ、のぶちゃんとICUに入ると若い看護師の表情に

うんざりしきったストレスの成分が浮かんでいた。私た

ちの方を見て微笑むのが精一杯のようで、今日も母はず

いぶん騒いだのかもしれない。母はのぶちゃんとわたし

を認めると、手を差し伸ばし、口を歪めて泣いた。


エスカレーターの隅の円卓につき、ソーシャルワーカー

から本当に母を帰宅させるのか、わたしの意思を聞かれ

た。確かめた上で、明日救急車で搬送される途中で頓死

した場合は病院に戻り、無事帰宅した場合にはそこで在

宅医に引き継がれることになると言った。師長が待って

いたように急に瞳を輝かせて「まれです。あの状態の家

族を家に引き取るなどということは。こういう話し合い

の場にもつかない人たちが今は多いのです。なのでその

心意気に私たちも全力を尽くして手配をしています。今

もあらゆる方面の人たちが明日に備えて走っていると思

います」と、握り締めた両方の拳を円卓において興奮を

している。さらに必要な事柄がソーシャルワーカーから

話され、私は母の最期に起こるかもしれないことをたず

ねた。心臓から出て最初の血管、上行大動脈が裂けてい

るから、吐血をするかもしれない、それは随分飛び散る

こともあると壁の上の方を指差した。おむつの付け方と

取り外し方を透明なビニール人形で教えてもらい、困っ

た時はすぐにナースコールと繰り返しジェスチャーで伝

えてくれたことで、気持ちが落ち着いていった。


ICUに戻ると、看護師たちの笑顔に迎えられた。ひとりの

年嵩の燃え盛る情熱で仕事をしているような人はわたしを

手招きして抱き抱えるようにした。そして「とにかくお母

さんはあなたに伝えたいことがある。話すのはあなたのこ

とだけなんです。今日も一日抱き抱えて慰めていました」

と師長と顔を並べ温かい笑みを満面に浮かべている。私は

何かよくわからない活気と情熱と希望に囲まれていた。


あらん限りの熱量でここを出ると表明しつづけている母は

6階の病棟に移ると屠殺場に連れて行かれる動物のような

悲痛な声で泣き叫びわたしの名前を読んだ。看護師たちが

母を覆うようにして慰めている。

ソーシャルワーカーに呼ばれて廊下を進み、談話室の窓際

の椅子を勧められて腰を置くと、彼女は声を落とし、母と

同じような気質の親と暮らしていると話し始めた。うちの

親も子どもを抑え付け思いのままにしようとする「どうし

てだと思います?」とわたしに聞く。伏せられたままの瞼

はパープル色のアイシャドウに彩られてキラキラしている。

「ここに来る85歳以上の女性によく見られる特徴です」

とわたしの目を見ないままさらに声を落とす。選ばれた言

葉がゆっくりと並べられ、まばたきする度に瞼が動きラメ

が光った。談話室の広い窓の向こうはうす暗く暮れようと

している。ソーシャルワーカーはわたしに同情してそんな

ことを話してくれたんだろうか。それが仕事の一環だとし

ても、親のことでは苦労をしている陰があるし、子どもの

頃から長く心が傷つけられ、怒ってはいるけれど諦め、責

められても愛情を持ち、今も同居することで生真面目そう

な彼女は疲弊しているようで、二の腕をさすりたかった。



明日の朝9時には介護ベッドが入ることが決まり、早朝、

母の従兄弟たちが居間の家具を移動するのを手伝いに来て

くれる。

のみこむ間もなく、またたくまに物事が準備されて、占い

の通りになった。

わたしは駅の方に出かけて、しばらくは自由がなくなるだ

ろうから、地下街のラーメン屋に入った。


味噌ラーメンとビールを待ちながら、横のカップルのテー

ブルに上がっている餃子や、水の入ったサッポロビールの

銘柄グラスを眺め、おかあさんって幸せだなあとぼんやり

思う。そして、たっぷりした体つきの看護師に体を抱き抱

えらるようにされたことを思い出して、彼女や彼らたちの

情熱や煌めきや、あの笑顔を思い浮かべた。









by hibinosara | 2025-07-07 08:39 | Comments(0)