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日々の皿

3月28日 午前




サイレンを鳴らした救急車は波の上をすべるように走り

始めた。乗車しているのは搬送される母のほかに、救急

救命士2名、ソーシャルワーカー、そして私。ひとりの

救命士は枕元に腰掛けて母の表情を注意深く見守り、低

いやわらかな声で話しかけている。


「かずちゃん、かずちゃんなの?」


母は確かめるように見上げた。意識がまだ混濁している

んだろうか。おかあさん、そういえばお声、よく似てい

るけれどかずちゃんではないわよと伝えると、長いまつ

毛の救命士がマスクの上でほほえんでいる。


今、どこを走っているんだろう。フロントガラスに広が

る景色に見覚えがない。ゆるやかにスピードが落ちると

進路を開けてくれるように運転している方の救命士が促

している。



母が倒れた夜、梯子車で上ってきた消防隊員からすぐに

も突破する準備ができていると電話があった。そしてし

ばらくすると母の応答がなくなり、これから突破すると

もう一度連絡があり、けれど私は戸惑って、母はベラン

ダから人が入ってくる妄想を持っているから、本当に入

ってきたら、やっぱりそうだったかと気が狂ってしまう

かもしれない。死んでしまえばそれでいいけれど、生き

のびた時はさらに怯えて暮らすことになるのではないか。

だからなるべく小さくガラスを切ってそっと入ってくだ

さいとお願いすると、トランシーバーの雑音が聞こえて

電話は切れた。玄関にまわっている隊員は郵便受けをバ

タバタ音を立てて(防犯カメラで見ていた)あの細長い

穴から母の名前を連呼している。私も母の姿の見えない

虚空の画面に連呼した。


「のぶちゃんはまだ着かないの?」


もったりした母の声が聞こえる。そうするうちにのぶち

ゃんが到着して鍵が開きチェーンが切られると、ドヤド

ヤと人が居室に入ってきたあの日が、遠く思える。


今日は早朝、母の従兄弟たちが家具を動かすために来て

くれて、予定より早い時間に介護用品会社のスタッフと

ケアマネージャーもやってきた。運び込んだ介護ベッド

はベランダの窓に相対さないように少し斜めに入れても

らう。母が母自身の妄想で怖がらないように。それにテ

レビもよく見える。


救急車が集合住宅の前に止まると管理人がエレベーター

の奥の扉を開けて奥行きを広げてくれ、母を乗せたスト

レッチャーが運び込まれ、部屋では母の従兄弟たちが待

ち構えていた。掛け声とともに介護ベットに移されると、

母はまた悲鳴を上げて青ざめている。

ソーシャルワーカーから訪問診療の医師に引き継ぎがされ、

看護師や事務のスタッフや処方箋薬局のスタッフがやってく

ると、廊下まで人が溢れた。



一週間と告げられた時、別れの時間が少なすぎることに

動揺して、けれど、どうしてだろう「ビール飲んで頑張

ります」なんてことを言っちゃうのは。そうだ。心がゆ

がんで涙が浮かんでくると、医師も看護師も事務員もこ

ぞって近づいて慰めてくれようとしたからだ。そんなと

き、私はどうしたらいいのかわからなくなる。


母は願いを叶えた。

自宅に帰って来れたし、私に伝えるべきことを伝える時

間もできた。生命力があれは十日間。母はずいぶん幸運

だと思う。



3月28日

今日は母の誕生日。


by hibinosara | 2025-08-15 17:57 | Comments(0)