もしかすると渡ってきたのかもしれないなあ

時間が足りなくなって、思い切っておかあさんにキャ
ベツを刻むの手伝ってと言ってみた。おかあさんが包
丁を握ったのは十ヶ月ぶりなのではないかな。小さな
色紙にするのは珍しいことらしく、こんなふうに切る
のははじめてだわと何度も言った。
近ごろの母口癖は「はじめて」で、いつからか頻繁に
聞くようになって、それは倒れてかもしれないし、そ
んなに昔のことではないように思う。
寝たきりの上半身を起こした去年の5月、母は目ばか
りが目立つ髪ぼうぼうの性別不明な仙人のような風貌
で、パチクリ瞬きをして世の中を珍しそうに眺めてい
た。
だからやはり、一度は向こうに渡っていたのかもしれ
ない。
ハンバーグにコールスロー、それから卵焼きを作る。
卵焼きなんて変かもしれないけれど、のぶちゃんのお
うちの食卓は、洋食にお味噌汁をつける日本の食卓だ
からその方が具合がいいと思って。
おかあさんは予想通り帰りたくなくて、ごねはじめた。
暮らしと離れるのがたまらなく寂しいのだろうなあ。
はじめて病院の外泊許可をとった夜、幽霊のように寝
室のベッドに腰掛けて、タンスの引き出しに並んだ洋
服を恨めしそうに眺めていた。深夜様子を見にゆくと
一番好きな服を着て、包まれるように寝ていた母がか
わいそうで仕方がなかった。
そうこうするうちにのぶちゃんが迎えてに来てくれた。
廊下も部屋もあちこち物の山になっていても、もう驚
かない。
おかあさんは、お赤飯とハンバーグを食べた。


